息子の2歳の誕生日に先駆け、ニューオータニのタワービュッフェへ行ってきました。
どれもこれもとてもおいしくて、とてもしあわせ〜。
パティスリーSATSUKIの1カット1000円もするスーパーショートケーキも
なんとなんと食べ放題なのですよほほほほ。
メロンもいちごも、どっちもおいしかったなぁ。
なにしろ1ピース1000円だし。
息子が生まれて、もう2年も経つのですね。
妊娠24週の時、不正出血があり、あわてて産婦人科に行ったものの、
2日も3日も経っても止まらない出血に不安を覚え、再度産婦人科に行きましたが、「何回も来られても診察するたびに出血はするものだ、そんなに心配なら入院しろ」
と割と強めに叱責され、特に何も処方されないまま帰されました。
それからずっと出血は続きましたが、「あんなに怒られるくらいだし、
この出血は気にしてはいけないんだ」と思うようにして、
いつも通りに満員電車で通勤し、フルタイムで仕事をし、家事をこなし、
違和感を抱えながら過ごしました。
出血が始まってから9日目、4月25日の深夜、ものすごい腹痛で眠れなくなったのです。
やっとの思いで産婦人科に着きました。
いつもの医師の姿はなく、初めて見る当直医にすぐに診察をされ
内診台に座ったとたん、
「あらま!頭が見えてる、もう生まれるよ!」と言われました。
その時の息子の頭の直径が6cm、子宮口は3cmまで開いていたそうです。
そのままベッドに寝かされ、待合室の夫が呼ばれ、
この週数ではここでは産めない、
産まれたとしてもその後の事もあるので
周産期センターのある病院に行ってもらう、
と言われ、当直医が慌ただしく救急搬送の準備を始めました。
しばらくすると、いつも診察をしていた医師が明らかに寝ぼけた様子でやってきて、
「え?どうなってんの?いま何週?25か…まあ、大丈夫か…」
と当直医に話しかけ、
私には声をかけることもなく机に向かっていました。
救急車がやってきて、ストレッチャーに移動し診察室から運び出される時さえ、
医者は背中を向けたまま、最後までこちらを見ることも声をかけることもありませんでした。
外は少しだけ明るくなっていて、もう夜明けなんだなぁ、と、ぼんやり考えていました。
搬送先の病院に着き、分娩台に寝かされて着替えさせられ採血をされ
点滴をされカテーテルを入れられ、
質問されるがままに、いろいろと必死に答えました。
妊娠までのこと、妊娠してからのこと、そして今日の今まで何があったのかを。
血液検査の結果から、医師からは
ただ、
このままの状態でお腹の中に赤ちゃんを入れておくのはあまりいいとはいえない、
しかし、赤ちゃんの肺の機能が未熟で呼吸がきちんとできない状態なので
肺の成長を促進できるステロイド注射を母体に打ち、
その効果が出る2日後に出産になると思ってください、と。
そして、血糖値が相当高く妊娠糖尿病になっているけれど、
通っていた産婦人科で何か処置は受けてないかを聞かれました。
毎回の検診で採血もしていましたが、妊娠糖尿病だとか血糖値だとか、
指摘されたことがなかったのです。
妊娠初期に1度だけ、HbA1cの値がほんの少し高めなので
毎回血糖値を見ていきましょうね、とは言われていたので、
てっきり毎回見てもらっているとばかり思っていたのですが、
どうやら何も見てもらっていなかったようです。
私の血糖値は高いまま、4ヶ月以上放置されていました。
今までの数秒で終わるエコーとは違い、念入りに何度も腹部をいったりきたりと
診察してくれる先生にやけに安心したのを覚えています。
ただ、2日後に産む、ということにはすごく抵抗がありました。
なるべくなら、もう少しでいいからお腹の中で一緒にいたいなぁ…と。
その後MF-ICUに移され、夫と今後のことや状況などを話していると、先生がやってきて、
「ちょっとプライバシーの問題があるので…」と夫が退出させられました。
そこで血液検査の結果、HIVの陽性反応が出ていると告げられました。
2日後の出産までに陽性か陰性か血液を他の病院に持って行き検査しないといけない、
結果は明日の夕方頃になる。
もし陽性だったら、
胎児に感染しないように処置をしながら帝王切開の手術をし、
出産後はすぐに感染症の病棟でHIVの治療を受けてもらうことになる。
スクリーニング検査ではごく稀に陽性が出ることがあるから偽陽性かもしれないし、
陽性かもしれないし、今の段階ではわからない、と。
正直、ショックすぎて吐きそうでした。
大量の点滴、いつまでも続く陣痛、妊娠糖尿病、
どうやら既定路線で拒否ができない2日後の出産、
それだけでも受け入れるのがいっぱいいっぱいなのに。
ここにきてのHIV宣告。
その後戻ってきた夫の顔を見た途端に、涙が溢れて止まりませんでした。
HIVのことを伝えると、何があっても二人で頑張ろうと言ってくれて、
これ以上に心強いことはないなぁと思いました。
でもやはり、不安で不安で仕方なかったです。
超低出生体重児が生まれるにあたって、生まれた子がどのようなリスクを
持って生まれてくるのか、目の前がさらに真っ暗になるような現実を
懇々と説明してくれました。無事に生まれたとしても、なにかしらの障害が残ってしまう可能性が強いということ、
あとはこの週数では未熟児網膜症に100%かかって生まれてくること、
肺の機能が未熟なので呼吸が止まってしまうことや、脳性麻痺、無呼吸発作、
心臓の弁が閉じないまま負担がかかってしまうこと、など。
実は、あんまり覚えてないのです。
耳を塞ぎたくなるような現実を突きつけられて、全然聞こえていませんでした。
別の病院に駆け込んで、感染症の薬を出してもらえばよかった。
無理して会社になんて行くんじゃなかった。
無理して家事なんてしなきゃよかった。
もっと、もっとこの子を大事にしてあげなきゃいけなかったんだ。
私は、なんてことをしてしまったんだ…と。
身の回りのことや各所への連絡は全て夫と、たまたま大阪から来ていた夫の母が
全てやってくれました。
夜には弟が面会に来てくれて、叔母が来てくれて、会社の人も心配してくれて、
金城さんは慌てて沖縄から駆けつけてくれようとしましたが、
必死に止めて、でもずっと連絡をし続けてくれて。
一人になったら、最悪のことしか考えられなくて、どうしようもなかったので。
隣のベッドからは同じ週数で赤ちゃんを産んだ方の